フューチャーラボラトリ解剖学 第4回日本の医薬品業界を斬る、若きエヴァンジェリスト 最年少、京大教授が成功への道しるべをしめす!

フューチャーラボラトリに対してアドバイスをくださっている外部の有識者の方々に、フューチャーラボラトリとはなにか? そして、橋本昌隆がこれから成すべき事はなにか?をおうかがいする「フューチャーラボラトリ解剖学」。

第4回は、「日本の医薬品業界はいずれ共倒れする。再編成を急げ」と、医薬品の世界における若きエヴァンジェリストとして、日本の医薬品業界、そして医薬品行政のあり方に一石を投じる、京都大学大学院の川上浩司教授にご登場いただきます。

前編は、代々の医者の家系に生まれ、医者になるべくして育った学生時代、そして製薬業界に身を投じ、京大教授となるまでのサクセスストーリーについてお話をうかがいます。

インタビューは製薬業界でのプロフェッショナルを目指す、京都薬科大学在学中の田坂茉利さん、西河咲季さんの二人がお話をうかがいます。サポートはいつものようにフリーランスジャーナリストのチバヒデトシです。

Guest

京都大学大学院医学研究科薬剤疫学分野 教授

川上浩司

Interviewer

京都薬科大学

田坂茉利

京都薬科大学

西河咲季

構成/執筆

チバヒデトシ(ジャーナリスト)

バイト、選挙、ER。さまざまな現場を経験した学生時代

京都大学大学院医学研究科薬剤疫学分野において教授を務める川上氏は、33歳という若さで異例の教授就任を果たしました。この分野におけるエキスパートである川上氏ですが、その話を聞けば、才能と経歴だけによっていまの川上氏があるのではなく、20代のうちに濃密な時間を過ごし、積極的にいろいろな事にチャレンジし、実にさまざまな経験を積んできた事もある事がわかります。そして、いまは研究だけでなく、知識と経験に加え、若さと行動力で、日本における薬事行政や製薬業界再編という大事に向き合っています。まずはその学生時代からお話をうかがいます。

―――川上先生は医者の家系とお聞きしましたが。

川上:そうです。それこそ江戸時代に遡るのですが、私の先祖は薩摩藩の家臣として、中国と薩摩藩に支配されていた琉球に赴き、当時の琉球政府を支援したと伝えられています。それ以後、沖縄との縁は深く、祖父は琉球政府立沖縄中部病院の院長を務めるなど、沖縄での医療に関わってきました。その後、父は横浜に移り、医院を経営しています。日本耳鼻科学会の理事を務めた父は、横浜市の耳鼻科健康診断の際に必要な滅菌処理について提案するなど、学校保健に貢献した事で、文部科学大臣表彰をいただきました。そうした家庭環境の中、私は何不自由のない子供時代を送り、中学高校一貫校を卒業し、筑波大学(医学専門学群)に進みました。

京都大学大学院医学研究科
薬剤疫学分野 教授
川上浩司氏

―――医者の道に進むには、中高一貫できてから、筑波大を選ばれたというのは珍しいですね。

川上:いまもそうですが、日本の医療では東大、京大に権威があって、どうもそういうのは馴染まないという気がして、自分なりのやり方で医療の道を進んでみたいと思ったのです。筑波に行ったのはいまでも誇りに思っています。卒業後は医者になって、父の後を継ぐ事はわかっていましたし、継いだ後は、安定した生活が先にある事がわかっていました。それで学生のうちはいろいろな経験しようと思い、筑波ではアルバイトをやったり、あまり経験できない事に首を突っ込んだりしました。そのかわり、成績は相当、低空飛行でした。

京都薬科大学
西河咲季

―――なんでも政治にも関わったとか。

川上:そんな大袈裟な話ではないのですが、当時、茨城県のある村の村長選挙の際に立候補者の補佐をやりました。選挙戦に関わるうちに、そんな小さな自治体でも、さまざまな利権が絡み合っているのを知り、想像通りの政治の世界、というものがあるのを実感しました。

 地元の方からは、医師として(筑波に)残ってくれと請われ、医者不足に困っている地域医療の現実も知りました。そんな事から、この国の医療が、政治の問題だけでなく、社会制度の問題でもある事も知りました。

―――卒業後は筑波に残られたのですか?

川上:いいえ。結局、筑波を出て、横浜の実家に戻り、横浜市立大学大学院(医学研究科頭頸部外科学)に進学しました。この横浜での2年はかなり忙しく濃密でした。平日は医師として病棟管理、手術、外来、外勤をし、平日の夜と当直のない土、日は研究するというハードな日々を送りました。この間は3ヶ月だけでしたが、休憩救急センター(ER)に行って救命救急の現場も経験しました。

 私の持ち場は熱傷センターだったのですが、ここでもいろいろな経験をさせていただきました。ERだけに、日々、さまざまな患者の方が運び込まれるのですが、ある時、全身熱傷で救急で担ぎこまれた方がいました。この方は、自分の意志で就職せず、税金を払わず医療保険にも加入していないような方だったのですが、そのような場合でも、医道として、月に1,000万円以上の税金を原資とする医療費が治療に使われるのです。私が思わず「いくら相互扶助とはいえ、これは本当に公平なんでしょうか」と思わず口に出してしまった時は、上司に胸ぐらを掴まれて「医者はブルーカラーだ。頭じゃなくて体を動かせ」と一喝されました。

―――まるでドラマのワンシーンですね。選挙にER。20代のうちにいろいろな事を経験されたんですね。

ボスとの出会いが人生を大きく変えた!

京都薬科大学
田坂茉利

―――博士課程終了後は家業を継いだのですか?

川上:大学院に進んで二年目の後半に、癌研究のための米国留学の話が出まして、声をかけていただき、米国に留学する事になりました。私は米国のNIH(国立衛生研究所)に行くものかと思っていたのですが、実際にはFDA(米国連邦政府 食品医薬品庁)に行く事になったのです。それまでに学んできた英語なんてまったく役に立たないだろうし、実際にやって行けるか不安はありましたが、当時は、箔がつくというか、そうした経歴も後々に役立つだろうと思い、行く決心をしました。

―――ここまでのお話をうかがうと、順風満帆な人生に見えます。渡米して米国の先進的な医療を学ぶ事で、さらに成功の道が開けたのでしょうか?

川上:そんなカッコいい話じゃないんです。たしかに日本にいれば、“お医者様”と言われますし、恵まれた方だとは思いますが、米国に行ったらそんなわけにはいかなかったんです。英語もロクに喋る事ができない私のようなものは、ただの移民の若造、という見方をされるわけです。

 それで、とにかく一所懸命、人のまねをしてでもがんばりました。さまざまな事を学び、身につけて行く毎日でした。その介もあってか、最初の3年間では研究員としてのいくつかの発見があり、業績も数多く重ねる事ができました。そうしている内に、臨床医として日本に戻るのではなく、このままアメリカで頑張っていこうという決心したのです。

 その頃、テキサス大学の癌センターにAssistant Professorのポストを見つけ、そちらに行こうとしていたところに、FDAでの私のボスだったRaj K. Puri氏(FDA, CBER,Div.of Cellular and Gene Therapies,Director)が引き止めてくださって、FDA-CBERの長官と話して僕のためにポストを作ってくれました。いま思えば、このボスとの出会いが私の人生を大きく変えたんだと思います。

株式会社フューチャーラボラトリ
代表取締役社長
橋本 昌隆

 そうして、米国の国民の健康福祉に尽くすという宣誓もして、FDAの役人になりました。そして、その後の3年間、臨床試験の審査業務や研究官としての充実した経験をしました。Puri氏は、いずれ私を米国にとって必要でもっともいい影響を与える人物という事でグリーンカード取得を推薦してくださり、移民局からその許可もおりて、アメリカ人になるつもりでした。研究を続けるために残ったのですが、薬の審査(*)という仕事もおもしろいと思いました。

※CBERでは生物製剤が市場に出回る前の臨床試験、承認の審査を行い、いわば薬の関所のような役割を担っている

―――すばらしいボスに出会い、着実にキャリアを積んでいた米国の生活を、なぜ終わらせ、帰国する事にしたのですか?

川上:父が心筋梗塞で倒れたのです。それも倒れた時は家族から知らされず、米国でがんばっているのだから、知らせるな、と言っていた事を後から知りました。それで、(親が倒れたのにそばにもいない)これは人としてどうなのか、と思い至り、ボスと相談して帰国する事にしました。折しもクリントンからブッシュへと政権交代した時で、ボスからも移民がこれ以上出世するのは難しい時代になった、と言われました。

 帰国にあたっては、国立がんセンターの先生を介して、いくつかから受け入れていただけるお話をもらえました。ちょうどその頃から、日本にもFDAでの経験が重要だ、という意見も増えていたようで、いいポストがありました。その中で、東京大学大学院医学系研究科(先端臨床医学開発講座)という寄附講座に行ったのですが、当初は助手に、という話だったので、思い切って「助手では……」と申し出たところ、助教授という事で受け入れていただけました。 交渉はしてみるものですね。

助手ではなく助教授に、という交渉は日本人ではなかなか言い出せる事ではないでしょう。このように自分の評価を正当に主張できるのは、川上氏が米国での生活や経験から身につけられたからではないでしょうか? 交渉や主張が苦手な日本人としては、見習うべき事と言えるでしょう。そして、川上氏は、いまは活躍の場を京都大学に移し、教授という立場で教鞭と研究、そして医薬品業界の活性化に尽力する日々を送っています。

野心を持ち、コミュニケーションができる日本人に

―――米国での生活を経験して、どのようなものを得られましたか?

川上:私は平和愛好者ですし、あくせくして人を蹴落とすような事は嫌いでした。全然、向かなかったんです。そういう意味では、日本っていい国だなぁ、って素直に思えるような、典型的な幸せな日本人だったんです。でも、米国で生活してみてわかったのが、世界は食べていくのに必死なんだ、ということでした。

―――日本人はどうしても外の世界を知らずに来てしまう傾向がありますね。

川上:やはり世界中からやってくる人々は、競争してでも米国でやって行こうというのが当たり前ですが、日本人は日本が一番いい国だと思っていて、競争ができない、競争をしらない、野心がないと三拍子揃っているんです。日本が国際社会で生き残って行くにはそれではだめだと思うんです。

―――生き残って行くにはどうやっていけばいいのでしょう?

川上:2つ大事な事があります。ひとつは野心です。私はボスから『No Success without Ambition(野心なき成功はなし)』という格言を教わりましたが、生きていくには、野心とモチベーションが大事なんです。今にしてみれば当たり前の事だという思いがありますが、その時は、正直、凄いところに来てしまったなと思いました。

 ふたつめに学んだのは、人とのコミュニケーションを大事にするという事でした。私は人の悪口が嫌いで、悪口を言う人もどうかなと思うのですが、これもボスからの格言で『Never Burn Your Bridge(あなたが歩いてきた橋を焼くな)』があります。これは自分が敵対する事があっても、そこで喧嘩をしないでコミュニケートをしなさいと言う事です。世渡りというと変に聞こえますが、社交的に、自分の事をきちんと説明して、いかに宣伝できるか。フレンドリーなやり方が大事だという事です。

 帰国してからはそういう事ができる日本人をきちんと育てていかなければならないという事をすごく感じるにようになりました。いまは学生たちには、必ずこの2つの話をしています。

―――若干、専門的な話になりますが、いまの医薬品業界、医薬行政において、日本と世界の大きな違いとはなんでしょう?

川上:まず、強い医薬品産業をつくらなければならないと感じています。極論かもしれませんが、それには一つの強力な企業でいいと思うのです。それはどういう事かといいますと、フランスやイギリスは、医薬品産業が生き残らなければ、国民に提供する薬が確保できなくなると考え、行政指導を行なって製薬会社を整理統合する事で、強力な医薬品産業に変化させる事に成功しました。

ところが、日本では製薬会社が70社もあって、混沌としたままです。このままでは共倒れする可能性も十分あります。

 また、それには医療や医薬品行政をどうするのか。産業構造としてビジネスを考えなければならない。いまから20~25年後に作る薬をイメージしていないとだめなんです。というのは、現在、日本の医療費はGNPの7%、31兆円に上ります。しかし、日本の人口は30年後は1億人を切って、確実に税収が減りますので、そうなると7%の医療費を維持する事はできなくなります。

 これでは制度と成長戦略が矛盾していて、医療制度や国民皆保険を維持する事はできなくなるのです。社会保障、安全保障の中で医療を考える時に、医療を以前の水準に戻すには、国民の税金をもっと入れるか、もうひとつは国民皆保険を考え直す必要があると思うのです。

―――それにはどのような解決方法があるとお考えですか?

川上:解決方法が簡単に示せる事ではありませんが、いくつかアイディアをお話しましょう。例えば保険収載をどうするか、保険収載すべきでない薬を減らしてはどうかという案です。

 私は昨年までかなり太り気味でした。それでスタチン製剤の服用をすすめられたのですが、これって普通に食事などでダイエットすればいい事で、通常のダイエットに使う必要があるのだろうか、そもそもそれを国民の税金でまかなう必要があるのだろうか、という疑問が沸いてきました。もちろん先天異常などの場合には必要ですが、自己管理でカバーできるところもあるのです。こういう薬品に税金を使うのが国民の医療と言えるのだろうか、という事です。

 もうひとつ。原資の再配分が必要ではないでしょうか?という事です。例えば、“課長になったら保険”、おかしなネーミングかもしれませんが“セレブ保険”みたいなものをつくるという案です。どういう内容の保険が必要かは、自分の年収に見合った、個人の自由にまかせた保険にすればいいんです。国が税金を投入して不公平な事をする必要はないんです。

 これが実現すれば、いまの原資の再配分して、相当の医療費が浮くはずです。それによって、本当に必要なところに医療費をかけるのです。そうなれば子どもの医療費が全部無料にできるのではないか、老人の医療費配分をふやせるのではないかと思います。

―――セレブ保険、いいですね。日本の保険会社がこういう柔軟な発想をしてくれるかどうかはわかりませんが、米国の保険会社ならやってくれそうですね。

川上:かなり無茶で突拍子もない発想に聞こえるかもしれませんが、国民の選択として社会保障を考えなければならない時期に来ている事を、医療や医薬品にたずさわる方々はもちろん、国民のみなさんにも本気で考えもらわなければならないと思うのです。

やりたいことはユニークな発想を活かしたビジネス、そして教育

―――20年後、30年後の医療について語っていただきましたが、ではご自分の今後はどのようにお考えですか?

川上:35歳という人生の折り返し地点で考えると、これまで私は医者をやって、教官をやってきました。きれいごとかもしれませんが、今後、外科医としてやっていって救えるかもしれないのは手術して1,000人とかだと思います。基礎研究を進めていい薬を作る事で世界中で数百万人とか、行政に行って社会制度を良くする事で何億人、何十億人が助けられるかもしれません。もっと大事なのは教育ではないかと思っています。

―――では今後も教育の分野で活躍されるという事でしょうか?

川上:人生一回ですからいろんな経験、いろんなチャレンジをしたいと思っています。正直に言いますと、本当にやりたいことはビジネス。近い将来はビジネスマンになりたいと思っています。情報がモノを言うという事があって、アイディアもひとつの原動力ですので、それをビジネスに活かせたらと思っています。アイディアマンとしては、いろいろな人にお会いして、お話を聞くと、話と話をつないでアイディアが浮かぶのです。

 ひとつはそうしたアイディアを活かしたビジネスによって民間の力から日本や世界を強くすることを、もうひとつは、やはり教育をやりたいのです。それも中・高・大の一貫校です。中学から全部一貫です。こうした一貫教育のいい例がインドです。

―――いま優秀な人材はどんどんインドからやってきてますね。

川上:そうなんです。そのうち日本はインドのために働かなければならない時代が来ると思います。30年後の世界に、若い人が多くて、世界で発言権があるのはインドです。日本はもちろん、中国でさえも高齢化社会でインドにはもう敵いません。そのためにはインドをターゲットにしたビジネスが有効だと思います。学生から相談を受けた時にも、そうした近い将来を見据えつつ、ユニークな発想を活かして研究するようにアドバイスし、時には具体的なアイディアを提供する事もあります。

―――そのアイディアの中には実際にビジネスの世界で活かされるものもありそうですね。

川上:大風呂敷を広げますが、様々に成功することが出来たら、投資に力を入れたいと考えています。日本の投資会社はサラリーマン・ベンチャー・キャピタリストなので、みんな右ならえの投資しかしないので、日本の若い人たちにリスクマネーの投資をしたいと思います。

世界に出ろ! チャレンジしろ! マイナスをチャンスに!

―――変革すべき医薬品業界の中で、そこに進もうという学生のお二人にアドバイスをお願いします。

川上:まず考えていただきたいのは、自分の人生は一回だという事です。30半ばの私は言うのも変に聞こえるかもしれませんが、これが結構、短いのです。気づいたら30、40です。自分がどこまでできるか。いままでなにができたのか。これからはどこまでできるか、やるべきか?ゴールを設定しなければならないと思います。

田坂:私は治験の仕事を通じて、世界で活躍したいと思っています。まず社会に出て、日本で働くのですが、どうやって世界に羽ばたいていけばいいのでしょうか?

川上:まずは世界に出てみる事をお勧めします。アジア圏よりも、いきなり欧米に行った方がいいでしょうね。それには語学留学とかではなく、仕事として行った方がいい。それには早くから上司にアピールするといいだろうと思います。仕事で実績を出して、20代の半ばには世界に出た方がいい。そして、実務だけでなく、マネジメントを勉強できる機会があった方がいいと思います。治験業界だけでなく、どういうキャリアパスをするか、チャレンジしていったらいいと思います。それには、例えば大学で学位ととるとか、いろいろ試してみるといいでしょうね。

西河:MR(医薬情報担当者)を続けていくのは大変ではないか心配しています。

川上:それには、最初から会社というか、人事とか上司にアピールしていった方がいいと思います。今後、製薬業界の再編もあるだろうし、そういった時にどこの部署に行くとか。そういった大きく動く時もマイナスに考えずに、チャンスにする事も大事だと思いますよ。

―――お話をうかがっているとどうも外資系に進んだ方が先行きが明るいような印象があるのですが。

川上:そういう事ばかりではないのです。国内の企業でも優秀な人は残りますし。ただ、文化が違うという点では、外資に行くのは勉強になると思います。競争力が得られる事もいいですね。いいお話があったら、外資にいくのはいいと思います。

―――最後になりますが、学生のみなさんに一言アドバイスをお願いします。

川上:チャレンジしななければだめですよ。『You Never Know Unless You Try』。当たって砕けろ!です。

プロフィール

川上 浩司

医学博士、医師

2006年より、京都大学大学院医学研究科 薬剤疫学分野 教授、慶應義塾大学医学部 客員教授。

前職は東京大学大学院医学系研究科 先端臨床医学開発講座 客員助教授、シンガポール国立大学薬学部 Adjunct Associate Professor。1999~2004年、米国連邦政府 食品医薬品庁(FDA;Food and Drug Administration)生物製剤評価研究センター(CBER;Center for Biologics Evaluation & Research)においてポストドクター研究員、細胞遺伝子治療部臨床試験(IND)審査官、研究官を歴任。細胞・遺伝子治療、癌ワクチンに関する臨床試験の審査業務および行政指導に従事した。2001年、横浜市立大学大学院医学研究科頭頸部外科学卒。1997年、筑波大学医学専門学群卒。1972年生まれ。神奈川県横浜市出身。